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戦後 ~ 独立へ @ ボルネオ島サバ州

マレーシアのボルネオ島サバ州の戦後から、独立への詳細を紹介します。日本の敗戦後イギリス軍が戻ってきますが、1957年マレーシアは独立し、1963年にボルネオ島サバ州とサラワク州が加わりました。

歴史の詳細

日本軍が引き上げた後、再びイギリスが乗り込んできた。彼らは徹底的な半日教育を行ったために、戦争当時のことを知らない世代は、日本軍が各地で残虐行為を働いたと思っている。確かに戦争中には、極限状況の中で残虐行為が発生したろうが、それはお互い様で、しかも日本軍の統治が3年半なのに対して、西洋人は世界各地で数百年間にわたって残虐行為を働いてきた事実があり、日本軍だけを悪く言うのは、一面的な誤解に過ぎない。

ともあれ、マレー半島部が1957(昭和32)年8月31日にイギリスから、マラヤ連邦として独立したが、マレー半島だけでは原住民でイスラム教徒のマレー系人と、主に儒教や道教、仏教徒の中国系の人口比率が拮抗する状況だった。そのために、両民族の対立激化が予測されるほか、経済的に優位に立つ中国系に国がコントロールされるのを恐れたマレー系の支配層が、非イスラム教徒ながら原住民のサバ、サラワク両州も加えることにより、ブミ・プトラBumi Putra(直訳すれば大地の子、つまり原住民のこと)の人口比率を中国系よりも上げることを目的として、サバ、サラワク、ブルネイ、シンガポールを加えた「マレーシア」という国家を創設する構想を発表した。

これに対しては、全ボルネオ島の領有を意図していた当時のスカルノ・インドネシア大統領が鋭く反応し、マレーシア構想を粉砕するために、東西マレーシアの国境地帯に軍隊を送り込み、両国はコンフロンタシ Konfrontasi(英語のConfrontation=対立から転嫁した言葉)と呼ばれる戦争状態に陥った。この状態は、1965(昭和30)年の930事件と呼ばれる共産党のクーデター未遂とされる事件で、スカルノが失脚するまで続いた。

インドネシアに加え、現在フィリピンの一部である元スルー王国の旧領であったという歴史を持ち出して、サバ州の領有を主張するフィリピンもマレーシア構想に反対して国際的紛争になったために、国連が乗り出して、サバ、サラワク両州で、マレーシア加入の可否を問う国連監視下の住民投票が1962(昭和37)年に実施され、その結果、1963年9月16日に、両州とシンガポールはイギリスから独立してマレーシアに加わることが決定した。

ブルネイは、豊富な石油資源がマレーシアに吸い取られることを恐れて、引き続きイギリスの保護国として留まったが、1985年1月1日に独立した。シンガポールは、その人口の75%の中国系住民の権利が、非中国系が多数のマレーシアに留まっていては制限されることを嫌って、1965年9月9日に、マレーシアから独立して単一の共和国となった。この経緯から、マレーシアの独立記念日の毎年8月31日は、1957年にマレー半島部が独立した日であり、サバ、サラワク両州も加わってのマレーシアが実現したのは1963年9月16日だとして、サバ州では今でも独自に、毎年9月16日を記念して祝日としている。

著者:三好良一


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更新:2015年09月26日|公開:2009年09月23日|カテゴリ:歴史

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