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近代(第2次世界大戦まで) @ ボルネオ島サバ州

マレーシア、ボルネオ島サバ州の近代、第二次世界大戦までの歴史を紹介します。16世紀に始まった大航海時代の影響は受けず、19世紀になってイギリス人が入植してきました。

歴史の詳細

サバ州は、いわば世界の果てという感じで存続し、クリストファー・コロン(コロンブスは誤り)がカリブ海の島に到達してから後の大航海時代にも、ほとんど影響は受けず、外の世界との接触はほとんどなかったのだが、それでも何千年も前から中国商人が来て、中華料理の最高級食材である海燕の巣や沈香(じんこう、香木の材料)、海鼠(なまこ)などを採集していた。そのため、彼らの血も先住民の中に少し混ざっている。その後、東南アジアで最初にイスラム教を受け入れたマラッカ王国からブルネイ王国にイスラム教が伝播し、それがサバ州の漁業民族にも少しずつ広まっていった。

さて、西洋世界との接触は19世紀になってからイギリス人が来たことから始まり、彼らは隣のサラワク州で、ブルネイ王国の領土を蚕食する形で乗っ取った、元イギリス海軍軍人のジェームズ・ブルックが建てた白人王国を足場にして、サバ州にも進出してきた。その頃、ロンドンで数名が「北ボルネオ勅許会社 North Borneo Chartered Company」という農産物貿易会社を興して、ゴム、胡椒、砂糖などの農園を拓こうと経営を始めた。それで、サバ州は世界史でも珍しい、株式会社国家だった歴史を持つ。

こういう経緯は、自給自足の平和な生活をしていた先住民には関わりのないことだったが、白人が現れてくるようになって、社会に動揺が広まった。特に、イギリスとの阿片(アヘン)戦争で負けた清国から大量の下層労働者(クーリー:苦力)を連れてきて農園を拓いた内陸部のテノム Tenomまで、海岸部のウェストンWestonからボーフォートBeaufort(現地での呼び名に従う)を通って鉄道を敷設してから、それが顕在化した。内陸部に白人が鉄道で来るようになると、終点のテノム地区で狩猟採集生活を送っていたムルットMurut族の間に集団ヒステリー状態が起き、遂には槍と弓矢のムルット族と、大砲と銃砲のイギリス兵との間に戦闘が起きて、大量の先住民が殺される事態となった。

また、同じ19世紀の末頃から、内陸部で陸稲(おかぼ:畑で栽培する稲)などの焼畑農耕を営んでいたカダザン・ドゥスンKadazan Dusun諸族の間では、隣村間の首狩り競争が頻発するに至り、イギリス人のカトリック宣教師が沈静に努めた結果、この民族の間にカトリック信仰が広まることになった。この頃、コタ・キナバルの沿岸部の漁業民族バジャウ族のマット・サレーは、諸民族を率いて数年間にわたる反英武装闘争を展開したが、この闘争は、独立後にサバ州で初めて作られた映画の主題になったりもした。

北ボルネオ勅許会社は、当初事業がなかなか軌道に乗らず、香港を足場にしていた米国人実業家やオーストリア人貴族、果ては日清戦争で勝った日本政府にまで売却話を持ち込むなど、その経営は迷走を続けていた。それでも、その後何とか軌道に乗り、当初本拠を置いていた北部の港町Kudatから東海岸のサンダカンSandakanに首都を移してから、フィリピンやインドネシアなどからも人が集まってきて、この町は国際的になって賑わうようになった。日本からもゴム農園や漁業、真珠養殖の会社などが進出し、日本の貧しい農村からは「からゆきさん」たちも売られてきた。

著者:三好良一


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更新:2015年09月26日|公開:2009年09月23日|カテゴリ:歴史

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