マラジャボルネオ
マレーシアコタキナバルから情報発信

マレーシアボルネオ島サバ州

ホーム > ボルネオ島サバ州 > 歴史 > 第2次世界大戦

第2次世界大戦 @ ボルネオ島サバ州

マレーシアのボルネオ島サバ州の第2次世界大戦の詳細を紹介します。イギリス軍を日本軍が降伏させ統治したのは約3年半。有名な「サンダカン死の行進」も終戦時に起こりました。

歴史の詳細

昭和16(1941)年12月8日の、ハワイの真珠湾奇襲の2時間前に敢行された、西マレーシア(マレー半島部)東北部のケランタン州コタ・バルのサバック海岸へのマレー半島上陸作戦に成功した日本軍は、翌年2月15日には、イギリスの東南アジア支配拠点のシンガポールを陥落させ、イギリス軍は無条件降伏した。これにより、イギリスが権益を維持していた東マレーシア(サバ、サラワク、ブルネイ)も日本軍の軍政下に入った。前述の、サラワクで白人王国を築いた3代100年のブルック王朝は、ここに終焉を迎え、北ボルネオ勅許会社も閉鎖された。

3年半の日本軍の統治中、日本軍は各地に、今でも現在のほとんどの地方空港として使われている飛行場を作り、道路を整備し、水田稲作技術を指導するなどして民生の安定化に努めた結果、当時を知っている高齢者の中には、日本軍を懐かしむ人が多い。そういう次第で統治期間の最初の2年半ほどは大きな戦闘もなく、比較的平穏に過ぎたのだが、昭和18(1943)年頃から、他地域での日本軍の敗色が濃くなるにつれて、サバ州でもイギリス軍に指揮された原住民の反乱が時々起きるようになった。

昭和20(1945)年になると情勢は緊迫の度合いを増し、日本軍にフィリピンを攻め落とされてオーストラリアに逃げ込んでいた米軍のマッカーサー将軍が反攻を始め、フィリピンに向けて戦線を北上するに従い、フィリピン側の東海岸のサンダカンやタワウTawauも空襲を受けるようになり、日本軍は東海岸に駐在する全日本軍兵士、日本軍属、在留邦人、連合軍捕虜、総数約2万人を、当時英語名ジェッセルトンJesseltonをアピApiと改称していた、現在のコタ・キナバルに移動させる命令を出した。

これによって、当時の道なき鬱蒼たる密林の中を行軍させられた人たちは、途中でマラリアやコレラなどに罹患したり、食料が尽きて餓死したり、野獣に襲われたり、原住民との諍いで殺されたりして、集合地点の州中央部のラナウRanauに達した者は半数ほどだった。この事件を「サンダカン死の行進」と呼び、約2000名の連合軍捕虜は、生存者が僅か6名という多大な犠牲を出し、オーストラリア政府は今でも毎年追悼行事を行っている。

6月に入ると、サバ州西海岸のブルネイ近くで、石油が採れるラブアン島に、イギリスとオーストラリアの連合軍が襲いかかり、数日間の連日の空襲と艦砲射撃によって、500名の日本軍捕虜玉砕し、生存者は僅か9名だけだった。

日本軍は、その後州内各地に立て篭もって高射砲などで反攻していたが、8月15日の敗戦を迎える頃には、組織的抵抗は終息していた。そして敗戦を迎え、日本軍は降伏文書に署名して武装解除され、日本軍兵士も一般人の在留邦人も、まとめて全員コタ・キナバルのタンジュン・アルTanjong Aru海岸に設けられた強制収容所に入れられた。ここで、日本軍に恨みを持つ連合軍兵士から様々な虐めを受けて、多くの人が死亡している。ともあれ、半年近くの間に、全日本人は財産を没収されて祖国へ送り返された。

著者:三好良一


関連ページ

更新:2015年09月26日|公開:2009年09月23日|カテゴリ:歴史

現在位置:ホーム > ボルネオ島サバ州 > 歴史 > 第2次世界大戦


このページを読んだ人にお勧めの記事


ブログの新着記事


ページ上部へ戻る