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中華系民族 @ ボルネオ島サバ州

サバ州に住む中国系人は約20%、第2の人口の多さを誇っています。昔中国本土から分かってきた華僑と呼ばれる人々で、頭が良いこともあり商売のほとんどは中華系が力を握っています。

民族の概要

サバ州に住む中国系人は、サバ州での、近年の外来民族を除く民族集団の中で、約20%という、第2の人口の多さを誇っている。現在は大多数がコタ・キナバルなどの都会で商業や工業などのビジネスの分野で活躍している…と言うより、他の東南アジア諸国と同様、経済分野をほぼ独占している。

何よりも、彼らの頭の回転の速さ、特に計数能力の高さ、合理的な考え方、労力を惜しまない勤勉さ、儲かりそうな事柄にはすぐに行動に出たる俊敏さ、素早く時流に乗る敏感さ、他人に先駆け、押しのけてでも目的を達しようとする強欲さには、日本人も含めて、他のどんな民族も太刀打ちできない。彼らと話していると、すぐに話題が食べ物や金儲けの話に集中するので、いつも辟易させられる。

また、筆者は現地で日本語を教える機会が幾つもあったが、中国系の理解力の良さは、他民族の生徒たちのそれを遥かに凌駕していた。そのために、授業を進める早さの調整に困ったもので、結局は、彼らを他民族と分けて授業せざるを得なかった。

そんな現世利益と合理主義に凝り固まっている彼らは、反面迷信深くて、また義理人情に厚い。州内の他民族のほとんどが、最初会った時には馴れ馴れしいくらいに親しくするのに、いざ何かあったら急に態度を変えて冷たくなるのに対して、彼らは見知らぬ人や初対面の人にはすごく素っ気ない対応をするが、いざ親しい関係になると、何かあれば自宅に招いたり、商売人だったら、何も言わないのに相当な値引きをしてくれたりする。そして、困った時には、本当に親身になって助けようとしてくれる。この点、異民族の侵入が相次いで圧制を受け続けてきた彼ら中国人の、信じられるのは自分の財産と身内だけだという歴史的な保身意識の現われなのだが、本稿では詳しくは述べない。

また、彼らは頭の回転が速くてプライドが高い余り、または頭がいいところを見せたいがために、早とちりや早飲み込み、一知半解の傾向もあるし、その場しのぎの出任せを言ったり、自分の責任を認めず開き直ったりするケースもまま多い。マレー系人を見下している彼らは、英語がペラペラなのを見せびらかそうとするが、その中国語訛りの英語の発音に聞き慣れてくると、文法的に支離滅裂なのがよくわかる。その点、筆者も含めて英語の聞き取りや会話が苦手な日本人の英語の方が、文法的にはかなり正確である。

また、西マレーシアの中国系人も同様だが、老人を除いて、英語教育を受けた人が多いために、漢字が読めず、書けないという人が多い。自分の名前だけはどうにか書けるのだが、ミミズがのたくったような字になる。また、第二次世界大戦初期の日本軍による香港爆撃を逃れて渡ってきた移民第一世代の老人などの中には、出身が極貧の農村で教育を受けていないためにローマ字も含めて全く文盲の人もいるが、それでも大会社の社長を務めていたりする。いずれにしろ、地頭のいい民族なのは確かだが、彼らの世界に誇るべき中国文明よりも、西洋文明の方に目を向けて崇拝する精神性は、外の皮は黄色だが、中身は白という「バナナ」的な生き方と言え、筆者には感心できない。

マレーシアで英語が通じると言われているのは、特にビジネス分野においてマレーシアで接触する人たちのほとんどが、他民族よりも圧倒的に英語能力が高い、彼ら中国系人であるからだ。また、マレーシアで暴力団を結成したり、高金利の金貸し業を営んだりと、暗黒街で活躍しているのも主に中国系人であり、日本の新宿などで犯罪を働くマレーシア人というのも、たいていは彼らである。


歴史

中国人は数千年の昔から東南アジアに来て商業分野で活躍していて、サバ州でも中国料理の最高級食材である海燕の巣、沈香(香木の材料)、海鼠(なまこ)などを採集し、現地に定住して血を残す人も少なくなかった。そのために、キナバル山やコタ・キナバルの「キナバルKinabalu」という名称が、Cina(チナ=中国、中国人)Balu(未亡人)から転訛した語句であるとし、危険な海燕の巣の採集作業で命を落とす中国人が古来多く、彼らの現地妻で未亡人になる者も多かったことに由来した名称だとする俗説もあるが、これは本来、「アキ・ナバル Aki Nabalu」、つまり、カダザン・ドゥスン語で爺さんを意味する「アキ」と、キナバル山の麓で、今はドライヴ・インの土産物屋で繁盛している「ナバル」という地名が組み合わさった、「ナバルの爺さん」が本来の意味のようだ。

さて、東南アジアで以前は華僑、現在は華人と呼ばれている中国系人は、中国本土での歴史上の大動乱の度に東南アジアへ移住してきていたが、現在のマレーシア全体でも、サバ州だけでも第2位の人口の多さを誇る民族集団になったのは、明治維新の28年前の1840年に起きた、清朝とイギリスとの間の「阿片(アヘン)戦争」を契機としている。この戦争で負けた結果、清朝は阿片の急激な流入を受け入れざるを得なくなり、その支払い代金である銀が急激に流出して国内経済が傾いたために、多くの中国人が経済的困難のために、または阿片を買うための金が欲しさに、中国を捨てて東南アジアへ移住していった。

彼らは、「苦力(クーリー:下層労働者)」として、米国では鉄道建設労働者として酷使されたが、マレー半島では錫(スズ)鉱山労働者として働き、サバ州では、南部のウェストン Westonからボーフォート Beaufort(現地での実際の発音に従う)を経て、内陸部のテノム(Tenom)へ続き、テノムで採れたゴム、胡椒、カカオ、砂糖などの農産物を運ぶための鉄道建設に駆り出された。このため、ボーフォートの町は現在でも、中国系人がサバ州に最初に上陸した場所として、現地の中国人には格別の思い入れがある。

なお、この鉄道の内陸での終点は、現在はテノム止まりであるが、第二次世界大戦直後までは、日本陸軍情報班が作成した地図にもあるように、終点はテノムの先のメララップMelalapだった。また、ボーフォート-コタ・キナバル間の鉄道が敷設されたのは、この内陸部の鉄道建設が終了してだいぶ後の1904年、日露戦争勃発の1年前である。

鉄道建設が終了した後は、彼らは各地の農業プランテーション労働者となったり、小規模な商店を経営したり、当時サバ州を支配していた「北ボルネオ勅許会社」のイギリス人官吏の下で働く事務員などの中級・下級職員に転進したりした。そうして代を重ね、現在の中国系人は、阿片戦争以降の第1代から数えて、今は第4、5世代になろうとしている。

第1世代は、政治や経済的事情から、または阿片欲しさで、ほとんど裸一貫で渡来してきて単純作業の下層労働に従事し、その中で商才の利く者は小規模の商売を始めた。第2世代になると少し経済的余裕が出てきて、高校程度の教育を受ける者も出てきて、親が始めた商売を拡大させていった。第3世代になると、全般的に他民族よりかなり裕福になり、高等教育を受ける者も出て、商業だけではなくて工業分野に進出する者も出てきた。

そうして、同じ裸で出発した彼らの中にも貧富の格差が広がってきた。実際に貧しい中国系人もかなりおり、例年1、2月の中国正月(日本の旧正月と同じ)の大晦日の晩などには、コタ・キナバル市内の中国仏教寺院の階段に、施しを求めて、主に老人の中国系人の貧民が多数腰を掛けている。


出身地

東南アジアに居住し、その土地の経済を支配している華僑、あるいは華人と言っても、中国本土の広大さを反映して、その出身地は様々であり、その出自によって、言語もお互いに外国語といえるほどに方言差がある。彼らは主に地域別に従って、一般的に以下の五つの集団に類別されている。


広東(カントン)系

香港の後背地の広東州の沿岸地域から移動してきて、主に商業を営む。
香港に多く居住するが、マレーシアでは、クアラ・ルンプールに多い。


福建(ホッキェン)系

広東の北の福建州沿岸地域から移動してきて、運送業の分野で活躍する。
西マレーシアのペナン州やシンガポール、台湾に多い。
昔から海運業に秀で、日本に稲作を伝えたり、倭寇に関わったりしてきた。


客家(ハッカ)系

広東省や福建省の奥地が出身地で、農業分野で活躍している。
古代より動乱の度に華北から華南地方への移動を重ねてきた。
「客家」とは「よそ者」の意味だが、彼らの言語は、古代語を残している。


海南(ハイナン)系

中国南部、ヴェトナムの対岸の海南島から移動してきた。
食堂経営などのサーヴィス業の分野で活躍。特に「海南鶏飯」は有名。
「海南鶏飯」は、鶏の骨のスープで炊いたご飯に、鶏肉のぶつ切りを添える。


瓊州(クワイチョウ)系

中国南部が出身地で、現在のタイ王国の中国系人のほとんどを占める。


サバ州は客家系が多い

さて、サバ、サラワク両州の中国系人は、元々農業関係の仕事で移民が連れてこられたこともあって、大多数が客家系である。この集団は、1990年代には、中国本土の鄧小平(デン・シャオピン)、李鵬(リーペン)首相、シンガポールの李光耀(リー・クアンユー)首相、台湾の李登輝(リー・トンホイ)などの中華世界の指導者全員を出して注目された。

彼らは、前述のように、古代から華北の地で大動乱や異民族の侵入がある度に、5波に分かれて華南へ移動してきたが、定着した華南の各地方で、土着の人たちから、よそ者として迫害されてきた。そのために、武装に心を砕き、防御用に丸い城壁で囲んだ集落を作って、その周りで農業を営み自給自足していた。女性も、他の民族が行っていた纏足(女性は小さな足でヨタヨタと歩くのがセクシーだとされ、幼女の時から足首から先をきつく縛って成長を止める風習で、今は勿論廃れている)の風習を採用せず、男性と同様の農作業にいそしんでいた。そんな境遇から、尚武を尊び、義理人情に厚い気風を育ててきた。

一方で、彼らの言語は古代の中国語をほぼ正確に伝えており、例えば「正月元旦」を「せいげつげんたん」と読むような、8世紀頃の遣唐使の派遣以後の唐音と呼ばれる読み方ではなく、7世紀頃の中国の三国時代の呉から百済を通じて仏教の伝来と共に伝わった、古い仏教用語に残っている呉音という発音で「正月元旦」を「しょうがつがんたん」と読んだり、「無明」「如来」「金色」などを、それぞれ「むみょう」「にょらい」「こんじき」と読んだりするような、昔の読み方に近い発音が今も残っている。

その数詞も、「イー、アール、サン、スー、ウー」という北京官話(マンダリン、標準中国語、または普通語=プートンホワとも言う)と違い、「ひい、ふう、みい、よう、いつ・・・」に代わって日本語に定着した「いち、に、さん、し、ご・・・」の発音とほぼ同じである。更に、今の中国語では合わなくなった、昔の李白や杜甫、陶淵明などの漢詩の平仄、つまり語頭や語尾の音韻の調子を合わせた技法が、客家語で読むと今でもきれいに韻を踏むなど、中国文化の古い伝統を現在まで色濃く残している集団である。

著者:三好良一


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更新:2015年09月27日|公開:2009年09月24日|カテゴリ:民族

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