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フィリピン系・インドネシア系・ココス族の外来民族グループ @ ボルネオ島サバ州

マレーシアのボルネオ島サバ州に住む外来民族グループ(フィリピン系・インドネシア系・ココス族)の詳細です。

要約

サバ州が1963年に独立して以来、近隣のフィリピンやインドネシアから、政治や経済的理由で大量に流入し、下層労働力を担ってきた彼らは、現在ではサバ州の土着民族を押しのけて、半数以上の人口を占めるに至っている。

フィリピン系

概況

 1980年代には約80万人だったサバ州の人口が、2000年には約270万人に膨れ上がった最大の要因を作ったのが、この民族であり、現在推定80万人はいるだろう。彼らは今も次々に渡って来るが、その手段が合法的なのか、非合法的なのか、その割合は半々というところだろう。

 コタ・キナバルのサバ州移民局本部3階は、ほとんど彼らフィリピン系専用でヴィザ Visa 発給をしているが、毎日、老人から赤ん坊まで、身動きできないほどの人で混雑している。サバ州東海岸の Kunak という小さな町で、小学校の教員をしていて筆者の妻の親族が語るところによれば、毎晩のように海からボートのエンジン音が聞こえて来るそうで、つまりフィリピン系の非合法移民は、ほとんど制限無しに流入しているわけだ。

 バジャウ族の項の中で、コタ・キナバルの「フィリピン・マーケット」の由来についての箇所で述べたように、彼らはフィリピン系とは言っても、キリスト教徒のルソン島のタガロク Tagalog や、中部のヴィサヤVisaya 諸族とは違って、スルー諸島各地から合法、非合法で渡ってきた、イスラム教徒の漁業民族であり、サバ州では、一括してスルック Suluk 族と呼ばれている。

 彼らの出身地のスルー諸島は、ミンダナオ島とサバ州の間にあり、スルー諸島の北側海域がスルー海、南側がセレベス海と分かれているが、この両側の海域は、前出のバジャウ、イラヌン、ブギス、その他のイスラム教徒漁業民族にとっては、自由な交易圏だった。それが、欧米の植民地列強が進出してきてから、彼らの勢力圏が決められ、それが20世紀に入ると国境線となり、それまでの自由な往来は密入国、自由な交易は密輸となり、処罰の対象となった。そのため、これら漁業民族の活動は制限され、困窮化していった。

 そして、特にフィリピン側のミンダナオ島とスルー諸島の各民族が、第二次世界大戦後に、北のルソン Luzon 島や Visaya 諸島から移住してきたキリスト教徒によって、故地を追い出されて難民化しているわけだが、一時はサバ州の領有も主張したことがあるスルー王国の末裔が、今何故サバ州に流れ込んでいるのか、少し長くなるが、その歴史的経緯を振り返ってみよう。


フィリピン難民発生に至る歴史

 スルー王朝は、16世紀半ばからフィリピン諸島を占領した、キリスト教カトリックのスペインに対して、何世紀にも亘る抵抗を続け、時にはマニラに攻め込むこともあった。

 この王朝がフィリピンに組み込まれることになったのは、1898年の米西戦争でスペインから統治権を奪った米国(United States of America の原義に従い、「合衆国」ではなく「合州国」を筆者は採用するのだが、表記が面倒なので「米国」を使う。また、「アメリカ」とは、南米アメリカ両大陸を指す呼称だという立場から、米国だけをアメリカと表記することはしない)の、後に連合国最高司令官として日本を統治したダグラス・マッカーサーの父の、アーサー・マッカーサー将軍の軍隊による占領以降のことである。

 また、1950年代からミンダナオ島やスルー諸島では、北部のルソン島やヴィサヤ諸島からキリスト教徒の土地無し農民が大量に移住してきて、土着のイスラム教徒との間で、主に契約観念の違いから土地問題で争いが頻発するようになった。要するに、米国式の教育を受けて、欧米式に文書による契約で土地の所有権が簡単に移転できると考えるキリスト教徒に対して、慣習法の世界で生きてきて、文書で契約を交わすという習慣がなかったイスラム教徒は訳もわからずに署名し、それで土地を取られて追い出されてから、詐欺行為に遭ったと憤慨するわけだ。

 そういう次第で、両教徒はミンダナオ島やスルー諸島で血で血を争う内戦に突入していったわけだが、フィリピン国軍をバックにするキリスト教徒側に対して、イスラム教徒側はどうしても劣勢に立つ。サバ州がイギリスから独立してマレーシアに加入した1963年頃には、イスラム教徒側はかなり劣勢に陥り、難民が発生していた。

 独立当時の初代サバ州王(世襲制ではなく、ヴェテラン政治家や官僚が選ばれて、1期3年の任期を、通常2期務める)や主席大臣を歴任したムスタファ・ハルンという政治家が、彼ら劣勢に立っているイスラム教徒と民族的にも宗教的にも非常に近い出自であり、独立後の開発を進めるための労働力を必要としていたところから、彼ら難民の受け入れを積極的に進めることにした結果、フィリピン系難民が大量に流入してくることとなった。そして、サバ州には土着の諸民族のどれよりも、このフィリピン系が多く居住するようになったわけだ。


現況

 それ以来彼らは、サバ州で、建築や土木関係の最底辺の労働力を担っており、その子供たちは満足な教育や医療も受けられず、多くがストリート・チルドレン化した。しかし、最近は木材に変わる油ヤシ(オイル・パーム)産業による好景気のために、彼らフィリピン人難民の状況もかなり改善され、子供たちは、国籍の問題や民族差別、それに無教養の親たちの教育に対する無関心さから、相変わらず学校へは行っていないけれども、ストリート・チルドレンはかなり減っている。

 2000年前後に、国連難民高等弁務官事務所 UNHCR(United Nation High Commision for Refugees)のクアラ・ルンプール事務所に務めていた日本人職員が、フィリピン難民の実態調査を行ったことがある。1990年代に、イラクのクルド族難民、ユーゴスラヴィアのボスニア難民、アフリカ中部のルワンダ難民などの問題が次々に発生して、その対処に追われていたUNHCR が、それらの問題が一段落してから、それまで多忙で手が付けられずにいた、サバ州のフィリピン人難民問題解決に着手することになり、そのための予備調査を行ったわけだ。

 彼は州政府の関係機関や難民たち自身、NGOなどから精力的に聞き取り調査を行ったのだが、意外な結果が出て、結局は UNHCR は当面打つ手がないという結論に至った。このことは公表されていないと思うのだが、筆者は当時クアラ・ルンプールに住んでいて、この職員とは、子供同士が日本人会の剣道部仲間だったことから親しくなり、お互い国際問題に関心が深かったから、当時熾烈を極めていたスリランカ内戦や、国際的陰謀の存在などの話をしたり、また、彼がサバ州へ行く前に、筆者が知っている限りのことをブリーフしたりした関係から、彼が帰ってから、結果を筆者に話してくれたわけだ。

 さて、その結論に至った理由は、以下の3点だった。

  • 難民たちが、実際に政治的迫害を受けていると思っていないこと。
  • 難民たちが、経済的に困窮していることを否定したこと。
  • 難民たちは、自分がフィリピン国民だと認めていないこと。

 この中でも、特に第3点目が決定的な否定材料となり、彼らをフィリピン人難民と呼んだり定義したりすること自体が矛盾することになり、UNHCR は手を引かざるを得なかったわけだ。要するに、彼らはスルー海やセレベス海が彼らの自由交易圏で、ミンダナオ島やスルー諸島などとサバ州の間は、川向こうの感覚だった昔の意識でいて、政治的境界などは意識の中に存在しておらず、その存在理由もわからず理解しょうともせず、川向こうの方がこちらより景気が良さそうだから渡ろうという感覚なのだ。

 何より、自分らと民族的に近いバジャウ族グループが先行者としているから、サバ州は他国という感じがしないし、一旦渡ってしまえば、きつい仕事ながら職にありつけ、食べていけるし、サバ州の住民もいい顔はしないけれども、邪魔も妨害もしないので、彼らにとっては気軽に行ける川向こうなのだ。移民局の規制はいろいろあるけれど、粘ればいずれは何とかなるし、運悪く手入れで捕まって強制送還されても、また来る方途はいくらでもあるしで、メキシコからの不法移民に悩む米国政府と同様に、打つ手なしなのだ。

 そもそも、この難民問題は「解決」する必要があるのかどうか、筆者にも今すぐに結論は出せない。「国境」の意味を問い直さないと答は出ないのではなかろうか。


インドネシア系

 インドネシアのバリ島以東、ニューギニア島までの間のヌサテンガラ Nusa Tenggara諸島、特にティモール Timor 島の西のフローレス Flores 島からも、大量の移民労働者が入っている。この民族は、ニューギニアやソロモン諸島、フィジーなどの太平洋のメラネシアに分布する、黒色の肌と縮れた毛髪、濃い体毛、さほど高くない身長を特徴とするアジア黒人の一種であるが、フィジー人のような大柄の体格はしておらず、日本人とさほど変わらないし、ソロモン諸島人ほどに黒くはない。

 前述のフィリピン人移民はほぼ全員がイスラム教徒で、政治と経済の両方が移民の動機になっているが、現地でティモール人と呼ばれるインドネシアからの移民はカトリックであり、はっきりと経済的動機のみでサバ州へ移民してきている。彼らは、時に凶悪犯罪を引き起こすくらいに気が荒いフィリピン人移民と違って全般的に大人しく従順で、主に農園労働者として働いている。

 この民族の移民は、フローレス島から、スラウェシ Sulawesi 島のウジュン・パンダン Ujung Pandan(旧名 マカッサル Macassar)などを経て、サバ州東海岸地方最南端の、国境に近い都会のタワウ Tawau から船で1時間ほどの距離にある、インドネシア領東カリマンタン州ヌヌカン Nunukan に4、5日をかけて到着し、そこで合法的に入国ヴィザ Visa を取るか、山の中を通って非合法に入国するかのいずれかだが、非合法移民はあまり多くはないようだ。


ココス族 Cocos

 スマトラ島とジャワ島の間のスンダ Sunda 海峡から南西に約800 kmの沖合いのインド洋上に、ポツンと孤立している小さな島がココス島で、現在はオーストラリア領となっている。筆者もサバ州に来るまで、この島のことを知らなかったのだが、筆者が指導していた農業研修生の1人がこの民族だった関係から、その存在を知った。

 だが、筆者がこの民族の数奇な歴史を知ったのは、それから10年くらい後に、鶴見良行の「ココス島奇譚」を読んでからである。彼も、サバ州でココス族という不思議な民族に出会って、主に英文資料から、その歴史を辿っていった。その数奇な歴史とは、こうである。

 この島は、大航海時代に英国の海賊が乗っ取った島であり、彼らはこの島に定住して、ココ椰子から取れるコプラ、つまり、ココ椰子の実の中の殻にできる白い果肉を乾かした物で、それから油を取るわけだが、その産業を興して、当時はイギリス領だったシンガポールなどに輸出していた。

 そして、そのための労働者として、ジャワ、スマトラは言うに及ばず、その他の東南アジア各地から人を集めたわけだが、その集めた手段が暴力的だったかどうか、今は記憶にないが、多分に非暴力的な手段だったと思う。ともあれ、こうして集められた東南アジア各地からの労働者たちは、外の世界との往来がほとんどないこの島に定住し、孤立した生活をして代を重ね、種種雑多な民族の混血が進んでいった。こうして形成されたのが、このココス族というわけだ。

 彼らは種々雑多な混血の結果として、これと言った人種的特徴を指摘するのは難しい。肌は大概、浅い褐色で、ジャワ人に見える者もいるし、ミャンマー人に見えるのもいるし、中国人の血が混じっているようにも見える。

 とまれ、鶴見良行によればサバ州東海岸にコロニーを作っていたようだが、今もあるかどうかは知らない。筆者が会ったことのある、この民族の人間は数人に過ぎないが、概して知的で大人しいという印象を持っている。

著者:三好良一


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更新:2015年09月27日|公開:2009年09月24日|カテゴリ:民族

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