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ムルット(Murut)族グループ @ ボルネオ島サバ州

ムルット族はサバ州内土着民族としては、第3番目に人口が多くて約10%を占めています。以前は森の中を移動する狩猟採集生活を送っていて、迫力のある民族ダンスでが有名です。

ムルット族の概要

ムルット(Murut)族グループ @ ボルネオ島サバ州
ムルット族の女性の民族衣装

サバ州内土着民族としては第3番目に人口が多くて約10%を占め、主に西海岸地方の奥地に広く居住している。この集団は前期のカダザン・ドゥスン族グループと父祖を共にしているが、彼らは、森林地帯で原始的な狩猟採集をしながらの移動生活をしていた。

サバ州独立後から州政府の定住政策によって、現在は農業に従事する人口が増えてきた。宗教はカトリックが多いが、プロテスタントやイスラム教徒も少数おり、また、近代化以前に何千年も崇拝されていた、精霊信仰であるアニミズムを奉じる人もまだ多い。

実は筆者は、1983年に農業指導員としてサバ州に来てから、この民族との関わりが最も深い。筆者が働いていた農業研修センターが、当初はケニンガウ Keningau、それからテノム Tenomと、いずれも、この民族が多く居住する内陸部に位置していたし、筆者が植林活動を活発に行っている地域スック Sook もまた、この民族の居住地だからだ。また、筆者を長年サポートしてくれている助手たちもまた、この民族である。


歴史

前述の通り、この民族は先に紹介したカダザン・ドゥスン族グループと先祖を同じくしており、元々は海や川沿いに高床式住宅を建てて住んでいた彼らの先祖が、野獣や毒虫、蛇たちの天国だった森を少しずつ切り開いて内陸部に進出してから、カダザン・ドゥスン族グループの先祖たちが、森を切り開いた丘陵地の斜面で焼畑農耕を営んで定着したのに対し、ムルット族の先祖たちは、更に深い森に分け入って、弓矢と吹き矢、それに槍を武器にして森の中を移動しながら、これら動物を採集する生活に特化していったわけだ。

彼らは、こうして得た動物の肉や、山中で取れる岩塩を持参して時折山から下り、麓で焼畑農耕を行っているカダザン・ドゥスン族の陸稲(おかぼ)や野菜、それに、カダザン・ドゥスン族が、バジャウ族やブルネイ族などの海岸部の漁業民族から交換で得た海産物、特に塩漬けの干し魚などと交換していた。こうして、山、陸、海でそれぞれの生業を営んでいる諸民族の間で、食物の交換と循環が行われていた。

こうして彼らは平和な生活を何千年も続けてきたのだが、19世紀後半になって、イギリス人がサバ州に進出してきてから、彼らの社会に不穏な空気が満ちてきた。それは、ボーフォート Beaufortから伸びてきた鉄道が、彼らの生活圏である内陸部のテノム Tenom に達してから顕著になってきた。

白人が内陸部に姿を見せるようになって、ある祈祷師(ボモー Bomoh)のお告げで、この民族のある男が白人を殺害してから集団ヒステリー状態となって、遂にはテノム近辺の男たちが弓矢と槍、吹き矢でイギリスの治安部隊と武力衝突するまでに至ったが、イギリス軍の大砲と銃に抗すべくもなく、この民族の多くの男性が殺されて事態は終息した。

ちなみに、この騒動が起きたテノム Tenom という町は、この時期に、イギリスの「北ボルネオ勅許会社」が課した人頭税、つまり住民一人一人に一律にかける税金に反対して反英武装闘争を指揮した、彼ら民族の昔の英雄である、アンタノム Antanom にちなんでいる。また、カダザン・ドゥスン族の項で触れるべきだったが、州中央部に水田で囲まれた盆地の、日本の昔の田舎を連想させる美しいカダザン・ドゥスンの町である、タンブナンの名称も、カダザン・ドゥスン族の2人の昔の英雄、タンブン Tambun とゴンブナン Gombunan にちなんで名付けられたものだ。

ムルット族は、カダザン・ドゥスン族と同様に、顔かたちや体格が日本人に良く似ていて、普段は実に温厚で人懐っこい民族なのだが、同時に、昔動物を追って森の中を移動していた名残りで勇猛さも保持しており、筋肉質の体をしていて身のこなしが敏捷な男が多く、怒らせると怖いところがある。

日本軍占領中に、東海岸のサンダカン方面から、陸軍報道班に随行して、サバ州第一の大河 キナバタンガン Kinabatangan 川を遡って奥地まで探検した、作家の里村欣三による「北ボルネオ紀行 河の民」によれば、下流や中流域に暮らしていたスンガイ族などの、カダザン・ドゥスン族系統の民族に比べて、上流域のムルット族は体つきが非常に頑健で、色艶が良く、すごく健康的だったと述べている。

いずれ、写真も掲載したいが、男は鳥の羽根の頭飾りに木の皮のチョッキ、赤褌(ふんどし)の、彼らの昔の写真に残る姿は、まさに森の戦士というにふさわしい。


食生活

前述の通り、この民族は2週間から1ヵ月間の間隔で、獲物を追いながら森の中を移動する狩猟採集生活を送ってきたわけで、そこで採れた動物や鳥、魚などが重要な食料だったわけだが、勿論動物性蛋白質だけ摂取していたわけではなく、木の実や山菜なども食べていたとりわけ重要なのは、切った幹の中央部分がそのまま手掴みで食べられる澱粉になっている、サゴ椰子という椰子の一種である。この澱粉は、そのままでも食べられ、筆者も大好きなのだが、彼らはこれを湯でゆがいて、日本の葛湯(くずゆ)みたいにしても食べるし、蒸気でふかして蒸しパンみたいにしても食べる。

長年、植林活動で筆者の助手を務めていたムルット族の助手は、1960年代の子供の頃、大規模な森林の商業伐採が始まる前は、毎日何らかの肉を食べていたと語る。森林に棲む大型の鹿(ルサ Rusa:日本の鹿の2倍ほどの大きさ)、イボイノシシ(Babi Hutan:ボルネオ島に棲む唯一の種類の猪)、オラン・ウータンやカニクイザルなどの猿などがよく採れたそうだ。さすがにボルネオ象やスマトラ・サイ、イリエ・ワニなどの危険な動物の名は挙がらなかった。

また、各種の蛇や、体長1.2mにもなるオオトカゲ、各種の鳥、それに川魚などが毎日食事に出されたと言う。米の飯が出るのは週に1度か2度くらいで、普通はサゴ澱粉か、キャッサバの芋を食べていたようだ。それでも、他民族の食事より遥かに栄養のバランスも量も良く、彼らが健康で頑健なのも頷ける。

そういう彼らの生活も、サバ州が1963年に独立してから、経済開発を目的に熱帯雨林の消滅が進んでから、野生動物もめっきり少なくなって、川の水位も下がって魚も減り、こういう贅沢はできなくなった。今では、肉は町の市場かスーパーマーケットで買うか、お客が来た時や祝い事がある際に、飼っていた鶏を潰すくらいである。

筆者が植林活動を展開するに当たって、現地の人たちに何故植林するのかを説明する際に、森が豊かな時には森の恵みがたっぷりとあって、電気もテレビも自動車もなくても、皆で平等に獲物を分け合い、お互いに助け合いながら、今より遥かに精神的に豊かな生活を送っていたのではないかと聞くと、年長者は皆大きく頷いてくれる。そして、今の子供たちは、そういう豊かな森の恵みを知らずに育ってきたのだ、彼らに自分たちの社会の素晴らしさを再認識させようではないかと言うと、皆喜んで賛成してくれる。

また、彼らはカダザン・ドゥスン族と同様に大酒飲みであり、サバ州内では彼ら独特の、タパイ Tapai と呼ぶドブロクを作る。なお、タパイとは元々はマレー語で麹(こうじ)を意味し、西マレーシアでは、発酵させた米をバナナの葉にくるんで食べる食品のことをタパイと呼ぶのだが、飲酒のタブーを形式上は守っている(多くのイスラム教徒が守っていない事実を筆者は知っている)イスラム教徒が、同じアルコール発酵のタパイを認めているのは矛盾だと、かねがね思っている。これは、ココ椰子の葉から採った椰子酒も同様で、西マレーシアのイスラム教徒は、採った日の夕方の、アルコール発酵が始まった直後の椰子酒は飲んでも構わないとしている。絶対におかしい!

話を、サバ州のムルット族のタパイ(ドブロク)に戻そう。いろいろな高さ、普通は約40cmの高さの陶器の甕(かめ)に、蒸した玄米と麹を混ぜ合わせて約1ヶ月間密閉して発酵させ、祝い事などがあると封を外し、水を注ぐ。そうすると、下からアルコール発酵してくるので、それを笹竹のストローで吸い上げる。その際に、甕の首の辺りに木の葉を仕掛けておき、甕の頭までヒタヒタに入れた水が、下から酒になってストローで吸い上げられ、その木の葉の表面が現われてくるまで、各人は飲み干さなければならない。

その量は普通のコップ6杯分程になり、アルコール度数は20度以上になるので、飲み口は甘いが、かなりきつい。筆者も、天地がひっくり返ったのは、一度や二度ではなく、この酒が原因で急性肝炎となって、現地の病院に1週間入院したこともある。


文化

サバ州各民族の間では、最もプリミティヴ(原始的)な生活を送ってきた彼らは、他民族に見られない、ヴァラエティに富んだ独特の文化を残しており、勇壮で見応えのある伝統芸能や踊りを見せてくれる。特にバンブー・ダンス(ムルット語でマグナティップMagunatip)は有名で、地面に並べた竹竿を2本ずつ叩き合わせる中を、足を挟まれないようにしてリズムに乗って渡る踊りで、フィリピン南部にも同様の踊りがあるが、これはコスチュームも伴奏もスペイン風になっていて、無国籍文化の見本みたいなものだ。やはり、サバ州のムルット族の、オリジナルでプリミティヴな踊りの方が絶対に見応えがある。

コタ・キナバルには多くの中華風の海鮮料理屋があり、筆者は魚以外の海産物は一切食べないのだが、日本から来たお客さんが希望する際にだけ同行して、鹿肉や鶏肉を食べている。こういうレストランで、州内各民族の踊りを見せているのだが、どこでも最後のメイン・イヴェントは、ムルット族の踊りである。何より、躍動感と迫力が断然違う。

こういう所で演じられるのは、バンブー・ダンスと吹き矢(スンピタン Sumpitan)で風船を割る実演と決まっているが、他に彼らの文化で有名なものに、ランサラン Lansaran と呼ぶ、ムルット式トランポリンがある。トランポリンの原型は、アラスカのイヌイット(エスキモー)が、アザラシの皮を縫い合わせた大きいシートを皆で持ち、誰かがそのシートの上で跳躍するのだが、ムルット族の場合は、家の床下にしなる材木を十何本かずつ交互に組み、その上に台を乗せて、数人が乗って弾みをつけ、真ん中の1人が高く跳躍して天井から吊るされた物、果物だったりお金だったりするが、それを掴むというわけだ。

元々家を持たずに移動生活をしていたはずのムルット族が、家の中にこういう跳躍台を設置するという矛盾を、筆者は今はうまく説明できないのだが、家と言っても、親族の何家族かが集まって、前述したカダザン・ドゥスン族グループの一支族のルンゴス族が生活していたようなロング・ハウス(長屋)のことであり、このムルット式トランポリンのランサランを設置するのも、こういう長屋の中においてである。多分に、移動採集生活とは言っても、女や子供、老人は必ずしもその限りではなく、共同の長屋に住むなどして、定着性が強かったのと考える方が理に適っている。いずれにせよ、もう少し勉強してみよう。

また、この民族の際立った文化として婚資、つまり結婚した場合の花婿側が、花嫁側に支払う結納にまつわる、ベリアン Berian という風習がある。昔は陶器の甕、布地、伝統音楽の伴奏に使うゴング、それに水牛数頭だったらしいが、それらの膨大な品物を一度に払いきれないので、花婿は何年間もそれを支払い続けなければならないという風習のことである。最近はエスカレートして、カラーテレビやラジカセは勿論、ランド・クルーザーなどの4輪駆動車などもその対象になっていると言う。

彼らは、結婚の前に花婿側の代理人が花嫁の父と交渉して、紙に記して文書にするのだが、何年も経つうちに文書のありかがわからなくなったり、花嫁の父も花婿も記憶が曖昧になったりして、有耶無耶に終わるのが普通のようだ。何と、大らかな文化ではないか。


支族

ルンダユー族 Lundayuh

サバ州南西部からサラワク領内の山地に住む、ムルット族の近隣種族であり、言語や文化はムルット族のそれとほとんど同じと聞いている。この民族はあまり有名ではなくて、筆者もよく知らないのだが、農業指導員をしていた時期に、この民族出身の女子研修生が1人いたので、その存在を知った経緯がある。


イバン族 Iban

この民族は、サバ州の隣のサラワク州の最大多数民族で、ここで取り上げるのはあまりふさわしくないのだが、サバ州よりも社会の変化がゆったりとしているサラワク州で、この民族が近年まで保持していた文化や生活様式が、ムルット族のそれとほとんど同一なので、若干の参考になることと、筆者が農業指導員をしていた農業研修センターがあった村には、多数のイバン族がいたことで、その時の見聞を書きたいと思う。

この民族も、鳥の羽根の頭飾りや木の皮のチョッキ、それに赤褌といういでたちや、全身に緑色の刺青(いれずみ)をしていた点は、ムルット族とほとんど変わりがないし、耳たぶや唇に穴を開けて大きな輪っかを嵌めたり、髪の毛を耳の上のあたりだけ残す、オカッパ状の髪型にしていたところなどは、ムルット族のみならず、アマゾンのインディオとも共通している。実際、ボルネオ島のイバン族、ムルット族、そしてインディオの三者に共通点が多いのは、何か意味があると思うのだが、これは考察中である。

また、この民族は、前述のカダザン・ドゥスン族グループのルンゴス族と同じく、親族の複数の家族が、ロング・ハウスで共同生活を送っていた。彼らは、ムルット族よりも定住性が高く、生業は必ずしも狩猟だけではなくて、焼畑や粗放な農業も送っていた。

さて、このイバン族はイギリスがサラワクに侵入してきた19世紀半ばより少し早く、現在はインドネシア領のカリマンタン地方から、ボルネオの脊梁山脈で、インドネシアとマレーシアの国境をなしているイラン山脈を越えてサラワクに入り、先住民族を次々に滅ぼしていき、その過程で、首狩り人種の悪名をほしいままにした。

その後、イギリス軍を散々に悩ませたほどの勇猛な民族で、現在もこの民族の兵士は、マレーシア国軍の重要な戦力である。1989年の中国の天安門事件で、天安門広場に集っていた学生や市民数千人を虐殺した人民解放軍の兵士は、ほとんどウイグルや内モンゴルなどの辺境出身の兵士だったが、このイバン族もまた、何かあった場合は、最前線に送られる役目を与えられているのだろう。ムルット族と同様、勇猛なイバン族も筋肉質の引き締まった体をして、動作が敏捷な人が多い。

実は、1999年だったか、マレー半島部でニッパ・ウィルスが原因の、豚から人間に伝染する日本脳炎状の病気が発生した際、イスラム教兵士に豚を忌避するタブーがあることもあったが、何万頭もの豚を抹殺する役目を担わされたのが、実にこのイバン続兵士たちだった。


プナン族 Penang

この民族も、サラワク州奥地に住む民族なのだが、森林内での移動採集生活を送っていた頃のムルット族とほとんど同じ生活を、つい近年になるまで続けていたし、今も多くがそういう生活を送っているので、これも参考情報として書いておく。

この民族は、我々から見て原始的に見える、イバン族を始めとするサラワク州奥地の諸民族からさえも野蛮と見られるほどに、原始的な生活を送ってきた。彼らは実際に家を作らず、地面に垂直に立てた2本の棒に、更に斜めに2本の棒を立てかけ、木の葉で屋根を被せるだけという、シンプルそのもののねぐらで寝起きして、昔のムルット族同様、先端に金属製の槍を着けた、長さ2mほどの吹き矢と弓矢を持ち、猟犬を連れて、獲物を求めて森の中を移動していた。彼らは、ほとんど褌1枚だけのスタイルだった。

吹き矢の先にはトリカブトの毒を塗り、息で吹き飛ばした矢を獲物に当てるのだが、獲物はすぐには死なず、驚いて逃げるのを、猟犬が血の匂いを嗅ぎながら追跡して追い詰め、追いついた人間が、弱った獲物に吹き矢の先の金属製の槍でとどめを刺すわけだ。

この民族は、アマゾン奥地のインディオと同様、外の世界との接触は全くなくて、長い間幻の民族とされていたのだが、彼らが世界のニュースの焦点になったのは、1987年にサラワク州北部で、森林伐採で切り倒した原木を運ぶトラックが通る林道を、男も女も老いも若きも関係なく一族総出で、半年間もの長い間にわたってバリケードを築いて封鎖するという抗議行動に出たためだった。

森林内を移動しながらの狩猟採集生活を送っている彼らにとって、森の木がなくなるのは、彼らの生活の糧である野生動物の減少を意味するし、何よりも主食のサゴ椰子が少なくなったことが、彼らを抗議行動に駆り立てた。彼らはサゴ椰子が取れなくなったために、他民族から米を調達しなければならなくなったが、米と交換するだけの獲物も少なくなったために、まさに民族滅亡の危機に陥ったのだ。

実は、この行動は、プナン族の社会で数年間生活を共にしていた、ブルーノ・マンサーというスイス人の文化人類学者が扇動したもので、彼はまだインターネットもない時代に、電気もなく自動車も滅多に通らない環境から、世界中に手紙で情報発信して、反環境破壊世論を盛り立てた。環境問題が大きく取り沙汰されるようになった1988年の前年に、こういう運動を展開したのだった。彼はその後、厳重な警戒網をくぐって出国し、数年後にシンガポールに現われたところを逮捕されたが、ほどなく釈放されている。

その後、バリケードは州政府の説得によって撤去されたが、さすがに世界の世論を気にした州政府は、彼らの生活向上を図るためのいろいろなプログラムを実施した。しかし、それは彼らの文化・伝統生活を破壊して、彼らを無気力にさせただけなのだという事実は、サラワク州北部の世界最大級の鍾乳洞のムル・ケイヴ Mulu Cave に行けば、よくわかる。ケーヴの周りに、プナン族が現金収入を得られるための土産物屋台が並んだ場所があるのだが、森を離れた彼らの目の虚ろな様子は、本当に悲しい光景だった。

著者:三好良一


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更新:2015年09月27日|公開:2009年09月24日|カテゴリ:民族

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