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4人まで妻が持てる一夫多妻制|イスラム教

イスラム教の一夫多妻制度とは、男性は4人まで妻を持つことを認めることです。ただし男性は経済的に裕福なこと、平等に妻を扱う、など大変なことがたくさんあります。

裕福な男性の特権

イスラム教では、男性は4人まで妻を持つことが認められていることもよく知られている。

マレーシアでは他の信仰も認めたうえでイスラム教を国教としており、政治家や高級官僚、実業家はおろか、小・中学校の校長レベルでも複数の妻を持つことが多いが、それによって悪い評判が立つことは全くなく、むしろ裕福な男性は進んで複数の妻を持つべきだと考えられている。

この件に関して、2つのエピソードを紹介しょう。


美女と結婚した国王のエピソード

13州で構成されるマレーシアで、世襲のスルタン(イスラム教社会での政治的最高指導者)のいる9つの州のスルタンの中から、マレーシア全体の国王が5年任期の持ち回りで就任する。

前々代の国王は就任時に73歳だったが、3人の妻のうちから、その3年前に結婚したばかりで、当時28歳と孫みたいに年の離れた、美人の第3夫人を王妃として宮廷に乗り込んできたので、さすがに信仰の厚いマレーシア版イスラム教徒の間でも失笑を買った。

案の定、国王は任期満了前に老衰で亡くなり、未亡人は莫大な年金を受け取って、今は悠々自適の生活を送っている。未亡人が若くて美人なこともあってほどが過ぎたのだろうと、下世話な男性連中は噂し合っていたものだ。


妻が多いのも大変...のエピソード

一挙に9人の子持ちに!

ケランタン州にいた時、当時筆者が活動拠点としていた農業研修センターの所長は当時29歳だったが、同級生の女性の夫が交通事故で5人の子供を残して亡くなったので、彼女の生活を助けるために第2夫人として娶ることにした。それで、第1夫人との間の子供4人と合わせて、一気に9人の子供の父親になることになった。


前妻の了解がいる

ところが、第2夫人を娶るには第1夫人の了解を得ることが必要で、第3夫人を娶る場合には、第1、第2夫人の両者の了解がいり、第4夫人の場合は3人の先輩夫人の了解を取らなければいけないのだが、彼の場合は第1夫人が猛反対した。それで、毎日夫婦喧嘩をして、所長は毎朝、目を充血させて、顔や首に引っかき傷や噛み跡を付けて出勤してくることもあれば、第2夫人候補に付けられたキス・マークを付けて来ることもあり、疾風怒濤の嵐のような毎日を過ごしていた

ケランタン州とタイ王国との間の国境を越えたスンガイ・ゴロック Sungai Golok という、ケランタン州民との親族が多いイスラム教徒のマレー人が多数派の町に、第2夫人候補者と共に行き、そこで親類のイマーム(イスラム教社会の宗教指導者)らに立ち会ってもらい、2人でアル・クルアーン(コーラン)の一説を読誦し、信仰告白をして、イスラム法(シャリーア)に基づく正式な結婚をし、その町の当局に登録した。


結局最後は離婚...

しかし、その後1年足らずで、経済的に第2夫人の生活の面倒を見ることができないために、この結婚は破綻した。


一夫多妻制と一夫一婦制の比較

ほとんどは一夫一婦

複数の妻を娶ることは並大抵のことではない。全ての先輩夫人たちの了解を得なければいけないし、彼女らを経済的にも肉体的(勿論、夜の生活面でのこと)にも平等に扱わなければいけない。だから、人並み外れた体力と資力、それに夫人間に揉め事が起きないようにする調整能力がなければ、到底複数婚生活は営めないのだ。それで、複数の妻が認められていると言っても、マレーシアに限らず、多くのイスラム教国ではムスリムのほとんどは一夫一婦の生活を送っている。


一夫多妻制のメリット

元動物学者の竹内久美子は、「賭博と国家と男の女」という本で、一夫多妻制と一夫一婦制を比較して、一夫多妻制社会が人口過剰を防ぎ、男が1人の女に束縛されることなく多面的な活躍ができて社会の文化を向上させるし、女も不安定な生活を支えるために他の女より男を惹きつけようと努力するので若さと美しさを保つ効用があるとして、一夫多妻制を賞賛している。興味のある読者は、文春文庫で出ているから、どうぞご一読を-。

ワシも時々欲しいなあと思わないでもないが、金もないし、体力もないし、揉め事の調整能力にも自信がない。まあ、エロ爺い呼ばわりされる前に、ボヤくのは止めとこう。


日本は性に自由な国?

一夫多妻制は、現代の日本人の目から見るとふしだらに見えるだろうが、その日本人は、明治維新以前は世界一性的に放縦な民族と見られていたことは、ルイス・フロイスなどの戦国時代に日本にいたカトリックの宣教師たちの見聞記や、幕末の横浜外国人居留地にいた欧米各国の商人や外交官たちの見聞記や紀行文に指摘されている通りである。

現在、日本の性道徳が乱れていると嘆く人が多いが、筆者に言わせれば、それは昨今に先祖返りして発現した風潮に過ぎない。有名な話だが、万葉集には、筑波山での満月の晩の、既婚者・未婚者を問わない乱交パーティーについての歌が残っている。また、浮世絵がゴッホやルノワールなどの印象派画家に多大な影響を与えたことは知られているが、彼らが見た浮世絵は、風景画や美人画ではなく、男女の性交場面をもろに描いた、いわゆる春画だったのであり、それで彼らのあいたでは、春画の名手だった喜多川歌麿の名が最も高いのだ。


なぜ一夫多妻制が生まれたのか?

4人は画期的な社会変革だった

現代の日本人には野蛮に見えるこの一夫多妻制は、実は当時としては革命とも言うべき画期的な社会変革だった。イスラム教以前のアラビア社会を歴史的に規定してジャーヒリーヤ(無明期)と呼ぶが、当時のアラビア社会では、前記のような体力と知力を兼ね備えた男だけが妻を持つことができ、多数の男はあぶれていた。

そういう男たちは、金さえあれば何人でも妻を持つことができ、その上限はなかったのだ。モハンマドはそれを4人に制限したわけで、これは物凄い社会改革を意味していた。それで、モハンマドに対して保守派は当然反抗したわけだが、ムハンマドの軍隊は彼らを打ち破り、彼らの旧習を打破したわけだ。


戦争未亡人を助ける

勃興期のイスラム教は戦争に次ぐ戦争で大量の男が戦死し、多くの未亡人が発生したために、その未亡人対策としても複数婚を積極的に認めたという背景もある。実は、モハンマドもこういう未亡人たちを妻に加えて行き、最終的に13人の妻がいたのだが、彼は、まあ特別扱いされているということだろう。


野蛮な風習ではない

ジャーヒリーヤについて補足すると、イスラム教はそれ以前の社会を野蛮と無知が支配した暗黒の世界として、歴史はイスラム教の発生から始まるとしたために、アラブ族の社会も含めて、それ以前の社会に全く価値を置かない教義を確立した。

それで、紀元前3500年から始まる人類最古の文明であるシュメール文明などのメソポタミアに興った諸文明にしろ、紀元前3000年に始まるエジプトの文明にしろ、これら人類の貴重な遺産である諸文明の価値を全面否定してしまった。

このために、これら中東のオリエント諸文明の遺産は砂漠の中に1000年以上も忘れ去られていたのだが、これらを発掘して再評価したのは、19世紀から進出してきた西洋人の考古学者たちだった。彼らの存在がなければ、我々は未だにメソポタミア文明やインダス文明の存在を知らずにいただろう。両方の文明とも、19世紀末頃になって、初めてその存在が知られるようになったのだ。

この点でも、イスラム教の後進性、知識の進歩を否定する硬直性や停滞性が明らかだと思う。イスラム文明が一時は世界的に覇権を握っていたのが、近代になってから急速に衰退していったのは、こういう負の性格がもたらした歴史の当然の流れと言えるだろう。

もう一つ補足するが、前述のように、アラビア社会には一夫多妻制の風習で昔からあぶれ男か多かったのだが、それがモハンマド以降に4人に制限されても、割合こそ減ったものの、相変わらずあぶれ男が多い事情自体には変わりがない。だから、こういう社会の男たちの間に同性愛者が多くなるのは、アラビアに限らず、インド洋のアンダマン諸島民などの社会でも同様だ。中東を旅行する日本人旅行者が、よくその手の男たちに誘惑される話が多いのは、そういう背景があるからだ。…また話が変な方向にずれそうになるので、この稿はここでピリオドを打つ。

著者:三好良一


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更新:2015年09月28日|公開:2009年11月02日|カテゴリ:宗教

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