カダザン・ドゥスン(Kadazan-Dusun)族グループ
著者:三好良一

1:概説

 州内の最大多数民族集団で、外来民族を除く土着民族に限って言えば、州内人口の約30%を占めている。元々は、農村で稲作を主体とする農業民族だったが、近年は特に若い世代が都会や町に出てきて住み着く傾向が顕著であり、コタ・キナバルなどの町の店の売り子やホテルの従業員、会社の事務員など、圧倒的にこの民族が多い。

 実を言うと、数年前に、マレーシアの首都クアラ・ルンプールでの風俗産業に従事している若い女性の圧倒的多数が、サバ州の農村出身の女性だと公式発表されたが、つまりは、この民族の若い女性のことである。このサイトの別のコーナーで詳述している日本の「からゆき」さんみたいに、親に売り飛ばされたわけではないが、彼らの社会が激変、ないしは崩壊していることを示す、悲しい出来事であった。

 この民族には、多くの人種の血が混合しているが、特に農村部で出会う彼らの顔立ちや体格、気質などは、水田のある光景と相俟って、中国系人より遥かに日本人に近く、まるで日本の昔の農村にするような気分にさせてくれるくらいに、日本人にとっては親しみを覚える民族である。特に、一般的に自己主張を控えて大人しいところは、それとは逆に自己主張が強くてわがままな中国系とは際立って対照的である。

 ただし、勿論例外はあるが、歴史的に抽象的概念を持ったり、思考する訓練に慣れていないために、特に計算能力などに関しては、概して頭の回転が早いとは言えない。仕事も勤勉なのだが、自分で判断して決定することは苦手で、指示待ちタイプが多い。だから、彼らの上司は大抵、頭の回転が早い中国系人である。もっとも、民間の経済セクターにおいては、ほとんど中国系が主導権を握っている。

 さて、この民族は、主にサバ州の西海岸地区の、漁業民族が住む海岸から離れた平地から、奥地の丘陵地帯まで広がっており、昔から焼畑農耕や水田稲作に従事し、宗教はほとんどがキリスト教のカトリックであり、北部には米国からもたらされたプロテスタントの、特に土曜日を休日とする原理主義的一派を奉じる人たちが多い。サバ州中部の内陸部、キナバル山の麓には、独立以後になって、当時のイスラム教徒を首班とする政権のイスラム教布教政策や、改宗することで州政府の恩恵が得られる可能性が高くなることや、政治的理由から、村毎イスラム教に改宗したところもある。

2:歴史

 この民族は、4、5千年前にインドシナ半島やマレー半島から船に乗って移動してきた人たちが祖先であり、そのために人種的形質や文化・伝統には、中国南部の雲南省や、タイやミャンマーの北部に住む、苗(ミャオ、またはメオ)族などの山岳少数民族と共通する点が多い。その詳細についてここで論じる余裕はないので、いずれ章を改めて述べよう。

 ただ、言語はこれらインドシナ半島の山岳少数民族の多くが使用しているタイ語系が属するシノ・チベット語族ではなく、マレーシア、インドネシア、フィリピンから太平洋諸島のミクロネシア、メラネシア、ポリネシア、更にマダガスカルでも用いられているマラヨ・ポリネシア語族に属する。特に、フィリピン諸語、その中でもフィリピン中部のヴィサヤ族の言語と非常に近い。これらの系統の民族との長年の接触の結果、昔の言語が取って代わられたものだろう。

 彼らは、インドシナ半島から持ち込んできた、丘陵地斜面で、陸稲(おかぼ、乾燥した畑に植える稲)や芋類、バナナなどの土着植物、更に近年になってからは、新大陸からもたらされたキャッサバ(タピオカ澱粉の原料)やトウモロコシ、パイナップルなどを植える焼畑農耕に何千年も従事してきたのだが、いつ頃か水田稲作も始めるようになった。

 水田稲作の開始時期については、他の東南アジア地域、例えばスマトラ島では大航海時代にポルトガルやオランダ人が進出してきてから、シャム(現在のタイ)から移植された水田稲作が始まった事例からして、サバ州で水田稲作が開始されたのもその頃かも知れない。しかし、一方で、世界遺産であるフィリピン・ルソン島中部のバナウェの棚田が数千年とされており、それが本当なら、サバ州での水田稲作の開始時期も数千年のオーダーになろうが、決定的な考古学的・農学的証拠について聞いたことはない。

3:文化

 宗教については、西洋人がキリスト教を広める前までは、日本の古神道と共通する精霊信仰を奉じていて、日本の弥生時代の各種の稲作儀礼や神話などに共通する点が多い。特に、死んだ女神の死体から米や雑穀が生じたとする穀物起源譚、つまり日本神話では、高天原で、スサノオノミコトに殺されたウゲツヒメの死体の目、鼻、口、女陰、尻などの穴から、稲、稗=ひえ、粟=あわ、小豆=あずき、大豆などの五穀が発生したとされる話とほとんど同じで、女神の名前が違うだけである。

 また、これはこの民族と言うより、近隣の漁業民族に伝わっているのだが、因幡の白兎に同じ話が伝わっており、主人公がネズミジカ(兎ほどの大きさの世界最小の鹿)という違いがあるだけで、主人公が鰐(わに)を騙して後で襲われるなど、物語の筋は全く同一である。このことからも、カダザン・ドゥスン族を始めとするサバ州の民族は、日本の弥生時代と同じルーツを持っていることがわかる。それは、数千年前の、中国南部やインドシナ半島北部に行き着くだろう。

 その起源は、今から7000年前に稲作が開始された、中国の長江(揚子江)中流域の古代文明(夏王朝)に辿れるが、その後北方の、小麦を主食とする遊牧民勢力(殷王朝)に滅ぼされ、その遺民が東南アジアや日本にまで拡散し、ネパールから西日本まで広がる、温暖帯旗気候の自然や風土に適応し定着して共通の要素を今も残している、京都大学の中尾佐助が唱えた照葉樹林文化なのだが、この話の詳細は別の機会に譲ろう。

 この文化の共通性に関して筆者が経験したことだが、この民族に属する筆者の妻を最初に日本に連れて行った際、弥生時代の遺跡である吉野ヶ里遺跡の展示品の中に、この民族が数十年前まで保持していた、稲刈り道具や倉庫など、稲作関連の文化との共通点が多いのに驚いていたくらいだ。また、日本の握り寿司の元祖である熟れ寿司(なれずし:米の間に魚肉などを挟んで約1年間乳酸発酵させた食品)や、米から作るどぶろく、清酒、焼酎などの酒類についても、それぞれと対応する地酒が揃っている。

 主食が米なのは言うまでもないことだが、現在はインディカ種という、日本のジャポニカ種と違って細長くて粘りの少ない米を常食しているものの、これは水田で作ったインディカ種の収量が多いためで、昔は焼畑で作った陸稲(おかぼ)の、ジャポニカには劣るが粘り気と甘味のあるジャヴァ二カ種を食べていたし、今もこの米を好む人は多く、インディカ種の約3倍の値段で売られている。筆者も、この陸稲が大好物である。

 現地の文化人類学者の研究によれば、カダザン・ドゥスン族の発祥の地は、内陸部のラナウ Ranauからサンダカン Sandakanへ向かう道の途中にある、ヌヌック・ラガン Nunuk Ragangという、今では何の変哲もない大きな川沿いの集落だそうだが、それは精々400年ほど前のことであり、文献や伝承、考古学資料などで辿れる限り確言できる年代であって、数千年前から居住し、各地に分散していた彼らの文化・伝統が集大成されて、現在目に見える形に形成されたのが、数百年前のこの地であったと理解していいだろう。

4:「カダザン族」と「ドゥスン族」

 「カダザン・ドゥスン」という呼び名について説明しよう。世界中のどの民族もそうだが、元々「~族」という自称を持っていた民族はなく、近代に入って外国人や異民族との接触が多くなってから、自分のグループを彼らと区別して表現する必要が生じ、そのための記号として民族名が発生した。「日本」という国名にしても、7世紀に、中国の隋王朝と交渉を開始するに当たって、初めて作られたものなのだ。

 さて、この「カダザン・ドゥスン」という呼称もまた、近代になってから作られた言葉であって、「カダザン」とは、この民族の言葉で「町」を、「ドゥスン」はマレー語で「村」を意味する。つまり、同じ民族のうち、コタ・キナバルやその近郊に住む集団が「カダザン」、つまり「町住みの人たち」を意味しているわけだ。それに対して、それ以外の農村地帯に住む人たちが自分たちのことを「ドゥスン」、つまり「田舎者」と自称しているわけだが、そこに自嘲的な響きは全くなく、むしろ誇りを持って自称している。それは、地理的関係から、中国系との混血が進んで「シノ・カダザン」と称される混血児が多数誕生している「カダザン族」に対して、自分たちは、この民族の血統を正しく伝えている集団なのだという自負と矜持が、この名称の裏に込められているわけだ。

5:支族

a:ルンゴス族 Rungus

 サバ州最北部のクダット半島を中心とするクダット地区一帯に居住しており、文化・習慣・生業・言語は多少の差異はあれ、その他のカダザン・ドゥスン・グループと同様である。この民族は、複数の家族が共同して一つの家屋、つまりロング・ハウス(長屋)に住んでいたことで特に有名である。

 ロング・ハウスは、時には長さが200mにも達する高床式の家屋で、幅は約10mほどであり、建物を真上から見た場合に、縦長に切った左半分が、集会や宴会を開いたり、子供たちの遊び場になったり、共同作業を行う共同の空間になっており、右半分が、4畳半から6畳くらいに仕切って、家族単位の部屋になっている。竹と木でできた、片側だけに部屋があるアパートを思い浮かべてくれればいい。

 台所については、これはどの民族でも共同だが、部屋の片隅の空間に、石を三つ並べて、その上に調理器具を乗せて料理するようになっており、彼らは家族単位の部屋外側をぶち抜いて、長屋からはみ出した形の台所建て増しするのが普通だ。

 他のカダザン・ドゥスン族集団のほとんどがカトリック信者なのに対して、地理的に米国の占領下にあったフィリピンに近いために、米国系のプロテスタント、特に土曜日を休日とし、酒やコーヒー、炭酸飲料、煙草などの嗜好品や、煙草、鱗のない魚介類をタブーとする、原理主義のSDA(Seventh Day Adventist)を奉じる人がほとんどである。この宗教は、日本で30年ほど前に輸血拒否事件で有名になった「ものみの塔 Watch Tower」とほとんど同じである。

b:タンバヌイ族 Tambanui

 この民族もサバ州最北部、特に、犬の両耳の形をした、マルドゥ Marudu 湾を囲んで北へ突き出している二つの半島のうちの、東側のピタス Pitas 半島部に多く住む。この民族も、ルンゴス族と同様、他のカダザン・ドゥスン族グループと同様の伝統文化を保持しており、宗教もルンゴス続と同様、プロテスタントの原理主義が多い。

c:スンガイ族 Sungai

 カダザン・ドゥスン族グループのうちで最も早く、多分に2、300年前からイスラム教に改宗した集団である。「スンガイ」とは、マレー語で「川」を意味し、サバ州で最も長い川であり、ボルネオ島全体でも、東カリマンタンのマハカム川、サラワクのラジャン川、西カリマンタンのカプアス川に次いで第4番目に長い、キナバタンガン川 Kinabatangan沿いに水上集落を作り、川での漁業で生計を立ててきた。

 後述の、フィリピンから渡ってきたイスラム教徒の漁業民族バジャウ族がサバ州に定着し始めるのが2、300年前だから、彼らとの交易や交渉を通じて、またその影響でイスラム教に改宗したものと思われる。

 言語は他のカダザン・ドゥスン族と同様。ただ、この民族は、同じグループの他の集団よりも頭の回転が早い。それは、他の漁業民族と同様に、「板1枚下は地獄」とされる危険な漁業という生業に従事してきたために、危険を回避するための判断力や、天候や外敵との遭遇の危険などを回避する判断力が、伝統的に身についているためだろう。

【作成日:2009年9月24日】